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三浦春馬さんの遺作《天外者》~五代友厚・歴史編

三浦春馬君五代友厚日本の真実

大阪取引所(北浜1丁目8)にあります、五代友厚氏の銅像です‼️マーキング18です~🤗

今回は、《天外者》を観て~🤗

五代友厚という人物に興味が湧いて、歴史を調べてみました❗

Wikipediaを簡単にまとめたものになります🎵

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公開日のTwitter

五代友厚歴史

1836年2月12日    生誕

1854年(安政元年)    ペリー来日

五代友厚~男児・志を立てるにはまさにこのときである

兄は鎖国論者・五代は開国論者

1855年(安政2年)    藩の郡方書役所(当時の農政を司る役所の書記官の補助)

1856年  長崎海運伝習所へ派遣(オランダ士官から、航海術を学ぶ)

1862年(文久2年)     水夫として千歳丸に乗り上海へ・船を買う❗(この時に高杉晋作に会う)映画ではドイツ人に値切って買っていた‼️

同年 8月21日    生麦事件

生麦村の付近で、薩摩藩藩主・島津茂久の父・久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人達をお供の藩士が殺傷❗(イギリス人は言葉がわからなかったようす)伝わってなかったんでしょうね~🙄

1863年(文久3年)7月  薩英戦争に発展❗(映画でも捕虜になって捕まってましたが~ホントに捕まったようす)

薩摩藩近辺も大分、やけ野原になった❗しかし、反撃もしていたようです✨砲台等比べ物にならないですが~荒天だったために一度、英側は撤退。その後現れたとき薩摩藩の攻撃がたまたま当たった所が良かったのか甲板が落下、軍議室で破裂して、司官・副長官側戦死❗強い波浪などで、英側は座礁・頓挫等して大きく傾き、薩摩側も砲台が破壊された為に応戦出来ず、あえなく英側は横浜の港に戻ったとか⁉️単に運が良かったのか?天が味方したのか?「日本を侮ってはいけない」と当時は言われていたようです✨

手引きしてもらい、五代友厚は逃がしてもらったようです✨(映画では、はるさんに助けてもらっていました❗)

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1865年   薩摩藩遣英使節団として、国へ

ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン構内に設置されている記念碑に五代友厚の名が刻んでいるそうです‼️

ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易交渉を結ぶも失敗に終わっています(映画では、留学中に坂本龍馬亡くなってますが~坂本龍馬は1867年大政奉還後に亡くなってます)

映画では、とても懇意な関係でしたが~お互いの史実には、少ししか出てきませんね~🙄坂本龍馬の方には少し載ってましたが~(したにblog見つけたので、載せますね✨)

1866年   帰国~グラバーと合弁で、長崎小菅にドックを築きあげる❗

ドック~船を引っ張りあげるものです‼️船を修理するもの・人間ドッグとか言いますよね

1867年       大政奉還徳川慶喜が行ったが、支配は続く✨それを、岩倉具視が潰す❗

ペリー来航(1853年)~大政奉還(1867年)までの15年間・幕末には武士の世・平安時代後期から数えると700年将軍が日本を支配した武家政治終息させようという流れがあった❗

1868年(明治元年)   戊辰戦争に大久保・西郷隆盛と共に倒幕へ

明治新政府の参与職外国事務掛となる

1868年2月4日(旧暦1月11日)神戸事件・フランス人水兵を負傷させた❗(明治政府、初の外交問題)

同年・2月15日      堺事件・摂津国堺・妙国寺

             パークス事件・外交処理へ

同年・外交官権 判事・大阪府権判事兼任として大阪造幣寮を誘致❗初代税関長となり、大阪税関史の幕を明ける✨

1869年(明治2年)   退官後~英和辞典刊行(本木昌造)・金銀分析所設立紡績業鉱山業(薩摩藩士と結び付き強くなる)

大阪会議(大久保利通・木戸孝充・板垣退助・伊藤博文・井上馨)

明治初期~維新変動の波を受け、大阪経済は衰退する❗

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1878年7月    大阪商法会議所設立❗初代会頭となる

1885年9月25日   糖尿病の為・この世を去る❗

明治18年→1885年マーキング18

18が多い~🙄666ですね✨

暗殺ではないとは思いますが・・・

安らかにお眠りくださいまし

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大阪を発展させようと色々してくれていた人ですね✨

しかし、首都にも出来なかった・天保山も発展しきれてない❗

今の状況をみると・・・

大阪を故意に発展させないように持っていかれてるような~🙄

そのために、五代友厚氏のような、聖人君子邪魔だったのかもなぁ✨

憶測は広がるばかりです‼️

坂本龍馬との接点

『坂本龍馬と五代友厚(幕末・維新の大阪)と大阪港(天保山)ー新大阪物語(390)』
坂本龍馬、五代友厚は、ともに、激動の時代に生き、そして、今もその名を知られている。龍馬と五代の二人のこと、大阪港とのゆか...

ー坂本龍馬と五代友厚(1867年)ー慶応3(1867)年4月23日、いろは丸と紀州艦明光丸が讃岐箱ノ崎沖で衝突し、いろは丸が沈没する。

いろは丸と紀州藩船の衝突した鞆の浦(広島県福山市鞆の浦)5月28日紀州藩、薩摩藩士五代才助(のちの五代友厚)に問題の調停を依頼する。5月29日龍馬、いろは丸事件賠償額について、調査不十分を理由に仲介の五代才助への対応を保留する。同日龍馬、小谷耕蔵らにいろは丸事件交渉の成立を伝える手紙を記す。6月3日後藤象二郎、龍馬と面談し、小銃の代価について五代才助のもとへ龍馬を派遣する。ー大阪開港・川口居留地と五代友厚(1868年)ー慶応4(1868)年7月、大阪開港に伴い、安治川河口から6km上流の川口町に外国人居留地が設けられた。

大阪の開港の地 川口居留地跡(本田小学校横)

五代友厚は薩摩藩士で、幕末に欧州視察し、
明治維新政府では、外交官に起用され、
京阪神で起こった事件、神戸事件(1月)、2月堺事件、
バークス公使襲撃事件の処理にあたった。五代友厚は、各国の領事に競売を通知し、
各国商社・個人が各区をイギリス(13)、アメリカ(4)、
プロイセン(4)、フランス(2)、オランダ(2)、ベルギー(1)の6ヶ国が落札した。


ー五代友厚と大阪ー明治2(1869)年5月、横浜勤務を政府に命でられ、2ヶ月後官職を辞し、「官界に人材あれど、民間に人なし」と、大阪の商工業活性化のために、大阪に移り住む。

五代は、旧貨を買い集め、今宮村(西成郡)に金銀分析所を創設し、造幣寮に納入した独占的事業で、財を成した。

のちに鉱山事業(明治4年)など多数の事業を起こし、堂島米商会所、大阪商法会議所などの設立に指導的役割を果たした。
五代友厚は明治18(1885)年に49歳の若さで病死。

色々な物を読めば読むほどすごい人です✨

学校の設立にも多額の寄付もしていたようです‼️

そして、一円で学校に入学出来るようにもしていた‼️

素晴らしい人です✨

しかし、ディープステートのような方々には、邪魔でしか、なかったでしょう✨

100年先を見透していた方です~🤗

今の大阪をどう見ているでしょうね✨

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ではこの辺で~👊😆🎵

読んでいただきありがとうございます

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